小栗上野介が駆け抜けた時代 12 上野介斬首の背景
「王政復古」の発令後、薩摩藩が江戸で挑発的な乱暴を働くようになります。薩摩の西郷隆盛が藩士を使い、江戸城西の丸を放火し、旧幕臣やその家族を襲撃し、江戸の町と幕府を撹乱する戦法を選んだのです。現代的に表現するなら「ゲリラ活動」です。江戸には不穏な空気が漂いました。血気にはやる旗本らが報復に出ます。江戸にある薩摩藩の屋敷を焼き討ちしたのです。しかしこれは慶喜の新政府への参加を防ぐために仕掛けられた、討幕派のワナでした。この焼き討ちが「鳥羽・伏見の戦い」へと発展していくのです。
1968年1月、大坂城にいた旧幕府軍と会津・桑名藩の兵は、天皇がいる京の封鎖を試みて伏見に向かいました。薩摩・長州藩を中心とする朝廷政府軍は、京都の入口である鳥羽と伏見で待ち構え、ここで武力衝突が始まります。これが「鳥羽・伏見の戦い」です。
旧幕府軍15,000人、対する朝廷軍5,000人。わずか3分の1の人数で朝廷軍が勝利します。これは両軍の装備に圧倒的な違いがあったからです。旧幕府軍が火縄銃を武器にしたのに対して、朝廷軍は外国から輸入した最新式の小銃や大砲で迎え撃ちました。旧幕府軍の敗戦が決定的になると、慶喜は側近とともに密かに大坂城を脱出し、大坂湾に停泊中の軍艦開陽丸に乗って品川沖に着き、江戸城に帰還します。総大将の退去を知った多くの藩が旧幕府軍を見限ります。新政府が送り出した征討の軍隊は、こうして「官軍」と呼ばれるようになります。
慶喜が帰還した江戸城で開かれた緊急対策会議の席で上野介は、官軍に対する迎撃作戦を唱えます。上野介と榎本武揚が主戦派の急先鋒でした。迎撃作戦とは、東海道を進撃してきた官軍の一部を箱根の山中に誘い込み、後続の官軍を駿河湾に待機した旧幕府の軍艦が砲撃するという計画です。しかし主戦派の主張は退けられ、すぐさま上野介は役職を解かれます。
上野介の身を案じた、小栗家のかつての出入り業者であった三井の中興の祖、三野村利左衛門はこの時期に上野介にフランスへ逃げるよう懇願したといわれています。その時、上野介は「謀略ばかりの政治にはもはや興味はない。これからは教育が必要だ。学校をつくり、世界に通用するリーダーを育てたい」と語ったとされています。
役職を解かれた上野介は、「主君慶喜が新政府に逆らわないと決めたのなら、旧幕府軍が抗戦しても大義名分がない」として、彼の領地のひとつであった上州の権田村に移り住み、村の青年を集めて外国語や数学などを教え、余生を送ることにします。前将軍の慶喜は、謹慎生活に入ります。
しかし官軍は、上野介が望むようなのどかな暮らしを許しませんでした。1868年4月、東山道総監府軍(官軍)が「小栗に反逆の意図あり」として上野介追討令を上州の各藩に出します。官軍にとって旧幕府の主戦派の急先鋒であった上野介は恐れる相手だったのでしょう。
権田村の住まいの周辺を官軍に囲まれた上野介は家族だけ逃がし、官軍に捕らえられます。そして反逆に対するなんの取り調べもなく、家臣とともに斬首さます。小栗上野介、41歳。ここに彼の人生は閉じます。
上野介が斬首される約半月前、江戸城は無条件で官軍に明け渡されます。西郷隆盛を実質的な最高司令官とする官軍との和平交渉にあたったのは、旧幕府陸軍総裁を務めた勝海舟でした。かつて外国軍艦を買いあさり、幕府に経済的な負担を与えた勝海舟が「江戸城無血開城」に貢献した人物として歴史に残り、公共事業の推進や株式会社の設立を唱え、近代的国家の枠組みをつくろうとした上野介が官軍の手によって斬首されたのは、皮肉な結果です。
「「江戸城無血開城」の後、旧幕臣の抵抗による局地戦が続きますが、官軍の前にことごとく破れ去ります。こうして1868年はそのまま明治元年となり、新政府が誕生します。
次週は、明治政府のもとで貨幣制度の構造改革が進められ、1両=1円の割合が決定するまでを紹介します。
By Master K/益田 慶