小栗上野介が駆け抜けた時代 8 上野介と三井のつながりの始まり

1862年(文久2年)2月、小栗上野介が対峙したロシア軍艦の対馬占領事件、通称「対馬事件」で上野介は実力でロシア艦を退去させることはできませんでした。東洋での利権の争奪戦を演じているイギリスとロシアを互いに牽制させるというアイディアは上野介の発案であったとされていますが、実際に駐日英国大使オールコックに相談したのは老中安藤信正でした。上野介は外国奉行の役職を解かれます。解任については、安藤信正が上野介を更迭したという説と、上野介自身が辞表を提出したという説が残っています。
どちらにしても上野介がロシア軍艦を自力で排除できなかったことに屈辱を感じたことは確かでしょう。アメリカ帰りの上野介はこの時、おそらく日本の経済力、軍事力、工業技術の低さを痛感したからこそ、のちに幕府の反対を押し切って横須賀製鉄所を建設し、さらには日本初の株式会社と呼ばれる「兵庫商社」を設立するに至ったのではないでしょうか。

同年6月、上野介は勘定奉行勝手方(かつてかた)に登用されます。勘定奉行には、公事方(くじかた)と勝手方があり、前者は裁判を担当、後者は財政を受け持ちました。といっても財政大臣ではなく、中央官庁でたとえるなら次官か主計局長クラスです。
この時期に小栗家に出入りしていたのが、のちに三井銀行を創設する「三井の大番頭」三野村利左衛門です。素性ははっきりしていませんが、当時彼は菜種油や砂糖を販売する「紀ノ国屋」に気に入られ、入り婿となり、紀ノ国屋利八を襲名していました。コンペイトウの行商で貯めた資金を元手に両替商の利権を買い、油や砂糖の商売のかたわら、小規模な両替商も兼業していたようです。

当時の両替商は、両(金貨)を他の貨幣に替える商いでした。江戸時代には、金貨・銀貨・銭貨という3種類の貨幣が利用されていましたが、金銀貨の流通範囲は地域によって異なっていました。特に江戸と大坂では金銀貨と銭貨との価値が異なっていたので、3貨幣の交換業務が不可欠だったのです。
やがて両替商の業務範囲は広くなり、商人や大名などを主な取引相手として預金を受け入れたり、手形の発行・決済をしたり、金銭の貸し付け、為替の決済などの金融業務を担うようになりました。大手の両替商は大名向けの貸し出しを行い、大名の財政を資金面から支えるようになっていました。江戸で最大の両替商が、幕府御用達の「三井両替店」でした。
三井組(のちに三井グループ)の始祖、三井高利は伊勢・松阪から江戸に進出し、「越後屋」の看板で呉服店を経営し、短期間に財を築いた人物です。この越後屋が「三越百貨店」の起源です。三井高利は京都に仕入店(本店)を構え、大坂にも呉服店と両替店を開きました。
当時の呉服商人は、大名、武家、大商人をメインの顧客とする訪問販売を営んでいました。代金支払いは年2回が普通でした。掛売りですから値段も高かったようです。越後屋呉服店は発想を転換し、値段を安くして店頭売りとし、そのかわりに掛売りなしの現金商売を行いました。低料金の新品の着物を販売したことで庶民の人気を博しました。
越後屋呉服店からすれば、訪問販売に費やす人件費が削減でき、現金取引なので資金の回収が早いというメリットがありました。呉服で財を築いた三井組は、横浜の開港とともに横浜にも両替店を設けていました。
こうして三井と江戸幕府は深くつながっていきます。そして幕府の財政危機によって上野介と三野村利左衛門を窓口とした三井との関係も深くなっていくのです。
その接点が、小栗家に出入りしていた紀ノ国屋利八なのです。彼は勘定奉行の上野介が奉行所下役に対して「金と銀との交換レートを、金に対して約3倍有利なレートに変更する」と告げているのを小耳にはさみ、金の含有量の高い天保小判を買いあさりました。交換レート変更の布令が出たのちに銀と交換すれば3倍の利益が得られるからです。

By Master K/益田 慶