小栗上野介が駆け抜けた時代 9 上野介の資金繰り
小栗家に出入りしていた紀ノ国屋利八、のちの三野村利左衛門の情報収集能力を逸早く見抜いていた男がいました。三井両替店の一番番頭、斉藤専蔵です。専蔵は利八を通じて勘定奉行の小栗上野介と接点が持てるよう働きかけます。
三井は横浜が開港された際に幕府に願い出て、外国奉行所御用達にしてもらった経緯があります。しかし新たに着任した上野介とは面識がありませんでした。
当時の外国貿易は幕府の管理下にありました。外国へ商品を販売した場合、外国商人からの代金はいったん奉行所へ入り、奉行所から商品を納品した国内の商人に支払われました。その際に関税も徴収されました。それらの業務を担ったのが、御用の認可を受けた三井のような商人でした。幕末は“民営化”が進んだ時代ともいえるでしょう。
貿易代金の納入から支払いまで60日の期間がありました。ご用達はこの間に資金の運用ができたわけです。この時代の金利は月1%が普通でした。三井両替店はここでも利益を上げていましたが、様々な要因から財政破綻の危機にあった幕府は、三井家などの裕福な豪商に献上金を強制しました。
一方の三井家もまた融資の焦げ付きや洋銀相場での失敗などが重なり、経営状態は悪化していました。
幕末に幕府財政が火の車であった理由は、1863年(文久3年)将軍家茂の二度にわたる上洛費、長州征伐費、軍艦購入費、四国連合艦隊との交戦の賠償金、薩摩藩士によるイギリス人殺傷「生麦事件」の賠償金など臨時の出費がかさんだからです。当時の幕府の財源は、直轄領400万石からの租税がメインでした。
財政危機をしのぐために考え出されたのが、豪商に対する献金命令です。幕府ご用達の両替商は地方で納められた税金を江戸で納金するので、巨額の公金を無利子で運用できました。納入から支払いまで原則60日でしたが、90日、150日といった特例も認められたといいます。そこで、三井家に献金命令が下されていたわけです。幕府が三井家に要求した額は50両でした。
三井家にできるのは減額申請だけです。そこで三井両替店の一番番頭、斉藤専蔵は小栗家に出入りしている紀ノ国屋利八を使って、上野介に減額申請を説くか、ワイロを渡して手加減してもらうか、戦略を練ったのでしょう。専蔵は献金を減額できる方法がないか、上野介に尋ねてもらえるよう利八に打診します。
紀ノ国屋利八を介して専蔵に返された返事は、「天下のためにできることを考えて欲しい」ということでした。
上野介の構想は次のようなものでした。
「融資する金のない幕府に代わって三井家が中小の商人に対して融資をする。原資は10万両。出荷商品を担保としてその商品価格の70%を3ヵ月期間で貸し付ける。利子は12%。原資10万両は横浜の三井両替店が預かっている関税を充当するが、これはもともと公金なので、三井家は幕府に年利10%の利子を支払う。商人に融資する利子と幕府に支払う利子の差額2%によって三井家は利益が出る。これを引き受けるなら、献金の減免を考えてもいい」
無利子だったものが、一転して幕府に年利10%の利子を支払うことになったことを苦々しく思った専蔵ですが、最終的に小栗案を了承します。しかし、京都の本店に納得させるには、献金の減免の確約と証人が必要です。これに対して上野介は「紀ノ国屋利八なら信用できる」と返答します。専蔵は勘定奉行の信頼の厚く、金融情報に明るい利八を雇い入れることによって大きなメリットが生まれることを悟ります。
上野介の幕府財政建て直し計画は、すぐさま実施されます。1866年(慶応2年)、中小商人に対する小口の融資制度「江戸市中荷物御引受当御貸付金」を施行。三井家はこの新制度の運営のために、両替店とは切り離した組織「三井御用所」を設置し、利八には「通勤支配格」と称する取締役クラスの役職が与えられました。利八は三野村利左衛門と改名し、三井グループの中で地位を築いていきます。
By Master K/益田 慶