小栗上野介が駆け抜けた時代 22 江戸時代の貨幣制度 貨幣政策

小栗上野介が駆け抜けた時代は、経済史の側面から見れば、貨幣制度が確立した時代といえるでしょう。乱世が続いたことで長く統一貨幣経済の育たなかった日本が歴史上初めて自前の通貨制度をもった時代、それが江戸時代なのです。先行する時代に「天正大判・小判」などの試みがありましたが、全国的規模で貨幣経済の基本を確立したのは、徳川幕府開府後の慶長年間以降になります。だからこそ、上野介がドルとの「交換レート」交渉に臨むことになるわけですが、この貨幣制度はとても複雑にできていました。


そもそも強力な統一政権による自前の貨幣制度の確立は、全国の金銀鉱山を独占した徳川幕府の成立によって初めて成し遂げられたと言ってよいでしょう。17世紀初頭に発見された佐渡金山や発掘技術、鋳造技術の進歩がこの幕府の貨幣政策を強力に後押しすることになりました。まるで19世紀半ばアメリカのゴールドラッシュのように、大きな金銀鉱山の発見が、国の経済の転機になったのです。
幕府は、金、銀、銭の三貨の鋳造をそれぞれ金座、銀座、銭座と呼ばれる場所で行いました。経営は幕府直轄でなく、民間による一種の請負い業務であったようです。ちなみに金座は現在の日本銀行の所在地に設けられ、当初の銀座は現在の京橋にありました。銀座は町名として残ったわけです。


 徳川幕府は、貨幣の発行権の独占と貨幣の様式の統一を進めました。これまで誰も手をつけてこなかった経済政策に着手したわけです。江戸時代の貨幣制度の特徴は「三貨制度」です。三貨制度とは、金、銀、銅(銭)の三種の異なる貨幣からなるものです。金貨の単位には、両、分(ぶ)、朱の単位があり、銀貨には、匁(もんめ)、貫、分、銭貨には貫、文といったお金の単位が存在しました。


金貨は小判1枚の1両を基準とし、1両は4分、1分は4朱といった4進法の単位で表わし、銀貨は重さがそのまま貨幣としての価値となり、銅(銭)は1個が1文(もん)、1000文が1貫文といった具合に、それぞれ独自のルールで運用されていくのです。つまり同じお金なのに個別の体系を持っていたということです。そこで貨幣を交換する際に「相場」が必要となったのです。


相場が必要になった理由は、ほかにもあります。江戸幕府の直轄地においては、金、銀貨が支払手段として広く流通していましたが、それ以外の地域においては、「藩札」という藩政府が発行した地域通貨のような紙幣が一般交換手段として利用されていたのです。


そもそも貨幣が通用する理由とは、受け取った人がその貨幣をその貨幣の価値だけ使えると思っているからです。たとえば、すべての人が「1万円札」を1万円分の価値のある紙だと思い込んでいるから物やサービスとの交換が成立するわけです。国内のある地域では1万円札が使えなかったり、その1万円札が8000円の価値しかなかったりすれば、貨幣の存在意味が問われます。このような事態に陥ることを回避しなければ、国内の経済は成り立ちません。


さらに金貨1両あたりの相場は時代によって異なりました。また、地域ごとに金銀貨の流通範囲が違っていたので、異なる貨幣間の交換が必須となりました。それぞれの交換比率は毎日相場が立って変化しましたが、大まかに金1両=銀50~60匁、幕末には80匁、金1両=銭4000文~6000文、幕末には10000文という具合でした。


相場は上下を繰り返しながら幕末に向けて金が値上がりする傾向でした。これらの実際の交換業務を行ったのが、三井家などの「両替商」です。「両替商」とは、「両」(金貨)を他の貨幣に「替える」ことに由来するのです。現在でも海外に行けば、空港や銀行などで円を現地のお金に「両替」しますが、この言葉は江戸時代の生まれたものだったのです。工業や商業などの産業が発展した江戸時代には、三貨の変動相場による収入は莫大なものであったことが想像できます。


By Master K/益田 慶