小栗上野介が駆け抜けた時代 27 江戸時代の貨幣制度 元文の改鋳

先週に引き続き、改鋳の歴史を説明しましょう。「元文の改鋳」で貨幣の実質価値の差異を増歩(ましぶ)交換政策によって乗り切った吉宗は、徳川幕府が期待したとおり新金貨との交換が急速に進み、貨幣流通量は改鋳前との比較において約40%増大しました。この貨幣供給量の増加は物価の急上昇をもたらし、深刻なデフレ下にあった日本経済に恵みを与えたとされています。経済情勢も好転し、元文期に制定された金銀貨は、その後80年もの間、安定的に流通しました。


この一連の流れをメカニズムとして捉えるなら、次のような流れになります。


改鋳(含有純金量は減少)→増歩交換方式による新旧貨幣の交換→貨幣供給量の増大→物価の上昇。一方、幕府財政は、相対米価の上昇、年貢の増徴のほか、貨幣流通量増加の一部が改鋳差益として流入したこともあって大きく改善しました。この傾向は1760年代初頭まで続きました。このように元文の改鋳は、日本経済に好影響をもたらしたと積極的に評価される数少ない改鋳でした。

ところで、金座で新規に鋳造された貨幣(金貨)は、どのような流れで流通していったのでしょうか? 両替商が重要な機関として機能したのです。江戸の金座で鋳造された金貨が大坂市中に流通していくプロセスを説明しておきましょう。

江戸金座→大坂の三井組、鴻池屋が受け取る→系列メンバーの両替商に貨幣を割り当てる→両替所で新旧貨幣を交換→三井組、鴻池屋あてに旧貨を上納→幕府より三井組、鴻池屋あてに報酬→参加の両替商に報酬を分配。こういうプロセスとなります。


しかし、小栗上野介が活躍した幕末にかけては、財政窮乏を補うため質を落とした改鋳がたびたび行われ、慢性的なインフレを引き起こしました。「この改鋳が江戸幕府を経済的に崩壊させた」と説く研究家は少なくありません。江戸期最後の万延小判は大きさも極端に小さく、純金量も慶長小判の約1/8しかありませんでした。

幕末に行われた安政・万延の改鋳は、1854年に締結された「日米親和条約」、1858年に締結された「日米修好通商条約」(神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港と自由貿易の許可)によって、諸外国との貿易が開始されるようになって、日本の金がどんどん外国に流出していったことに対処するために実施されました。開港によって表面化した内外の金銀比価の乖離が引き金になったのです。


しかし、改鋳の結果、万延元年(1860年)以降、猛烈な勢いでインフレが進行する「ハイパーインフレ」が発生します。1859年の開港後、明治2年(1869年)までの間に名目貨幣量は5,300両から1億3,000万両へと急増しています。10年にわたり年率9%近い比率で増加した貨幣供給量が物価高騰をもたらしたのです。

小栗上野介が遣米使節団の監査としてアメリカへ旅立った安政7年1月(同年3月に万延に改元)、彼が持参した小判は「万延小判」でした。一行が出発した2日後、それまで流通していた天保小判1両の増価が布告されました。金銀含有量が多く、型も大きい天保小判1両は、新鋳の万延小判3両1分2朱とすることが発表されたのです。天保小判1両を持っていれば、それが3倍以上の価値になったのです。この情報を聞いたのが、のちに三井家の中興の祖となる三野村利左衛門でした。小栗家の出入り業者で小規模の両替商であった彼は、かき集められるだけ金をかき集めて天保小判を手に入れたといわれています。


一方、開港によって日本に訪れた欧米人は当時、一般に金貨を使用することはなく、もっぱら銀貨、それもメキシコドルを使用していました。当時の通貨条項は「同種同量の交換」でした。つまり、金貨は金貨と、銀貨は銀貨と同量交換されるというものです。開港場の両替所では、役人が一方の秤にドルを、一方の秤に銀貨を載せて重さを測ったのです。つまり、開港によって実質的な金銀本位体制が始まったのです。


By Master K/益田 慶