2 旧財閥系の百年企業 三菱財閥・日本郵船

創業から百年以上続いている「百年企業」を紹介するにあたり、最初にピックアップすべきは、旧財閥系企業グループであろう。太平洋戦争まで日本経済を牽引し、戦後に実施された財閥解体後は企業グループに移行し、現在もなお日本経済の中核を成す巨大グループばかりである。


旧三菱財閥、現三菱グループの源流は、1885年に創業した百年企業の「日本郵船」である。三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎は、明治政府の支援を受けた政商でもあった。1875年、明治政府は国有会社であった日本郵便蒸気船会社の経営を三菱商会に吸収させ、郵便汽船三菱会社が誕生する。そして岩崎弥太郎が他界した1885年、同社と三井系の国策会社である共同運輸会社が合併し、「日本郵船会舎」が設立。政府は両社のダンピング合戦による海運業の衰退を危惧して合併を促し、三菱と三井は対等合併とされたが、一説によれば政府は三菱に巨額な補助金を与えたといわれている。


当時のライバルは、米国の船会社パシフィック・メール社と英国系の船会社ペニュシュラル・オリエンタル社であった。明治政府はアメリカやイギリスの名門海運会社に握られていた航海自主権を奪取することを目指していた。香港、上海、横浜に航路を開いた外国船に対抗し、岩崎はマスコミを利用して愛国心をあおり、運賃を引き下げる一方で、政府に支援を求め、国家を挙げての闘いの体制を作った。と同時に大胆なリストラを行って経費を節減し、運賃引き下げに対抗できる経営基盤を築こうとしたのである。やがて日本の海運をほぼ独占した三菱は、為替業務、海上保険、倉庫業など業態の多角化に乗り出す。日本郵船と契約すれば、為替、海上保険、製品の管理まで関連したビジネスでの独占体制を築けるのである。日本郵船が三菱グループの源流と呼ばれるのは、こういった背景があったからだ。


岩崎弥太郎の死後、三菱の総帥となったのは、実弟の弥之助である。弥之助は三菱の事業を「海から陸へ」と拡大し、それまで副業としていた炭鉱、鉱山、銀行、造船、地所などの発展に力をそそぎ、そのための新組織として三菱社を創設する。いわばこれが後の財閥形成の基になった会社である。弥之助は1881年に弥太郎が買収した高島炭鉱と1884年に政府より借り受けた工部省長崎造船局官営長崎造船局を長崎造船所と命名し、これらを中核として、事業の再興を図った。この年に本格的に開始した造船事業は、のちに三菱造船株式会社に引き継がれ、大きく成長する。
同時に1885年に第百十九国立銀行の買収による銀行業務への本格展開をし、1887年に「三菱倉庫」を設立した。よってこの三菱倉庫も三菱グループの百年企業のひとつである。


1893年に商法が施行され、三菱社は三菱合資会社へと改組。同時に弥太郎の長男・久弥が三菱合資の三代目社長に就任。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒(現キリンホールディングス)の設立など、事業がいっそう拡大された。ちなみに三菱グループの宴会では、「キリンビール」が銘柄指定されることは慣例である。


「三菱御三家」の三菱商事(1918年創業)、三菱重工(三菱重工業としては1934年創業)、東京三菱UFJ銀行(三菱銀行としての創業は1919年)がどれも百年企業ではないことを考えると、三菱グループが意外に歴史が浅いことがわかるだろう。三井、住友が三百年以上の歴史を持つ旧家なのに対して、三菱は明治の動乱期に台頭した岩崎弥太郎のマンパワーとそれに続く兄弟、息子たちが短期間で基盤を築いた一大グループなのである。


では、次週は、三菱より歴史のある三井、住友系の百年企業を見ていこう。


By Master K/益田 慶