小栗上野介が駆け抜けた時代 38 激変した世界地図の中の江戸時代 遣米使節団
成立したばかりのアメリカ合衆国は、極めてまとまりのない国家でした。強力な中央政府を樹立し、「国民国家」をつくろうとする北部に対して、イギリスに綿花を供給する南部は経済的にイギリスへの従属状態にあり、北部の支配下に入るのを拒んで州の自立を主張したのです。南部が奴隷制の容認、自由貿易、州の自立を主張したのに対し、北部は奴隷制の廃止、保護貿易、強力な中央政府の構築を唱えていたのです。やがてイギリスが必要とする綿花の一大供給地の「南部」と、工業化を進める「北部」の対立へと発展していきます。
小栗上野介が監察として加わる遣米使節団がアメリカに向かった1860年は、アメリカにとっても大きな分岐点となった年でした。同年11月の選挙で奴隷制廃止論者のリンカーンが第16代大統領に当選したのです。じつはアメリカ視察から帰国した小栗上野介が、最初の外国奉行に昇進したのも同じ11月でした。
翌年には南部11州が「アメリカ連合国」を立ち上げ、北部からの分離をはかります。リンカーンはこれを認めず、南部が実力行使に打って出たことで、「南北戦争」が勃発したのです。
では、南部が綿花を供給したイギリスは当時どのような状態にあったのでしょうか? イギリスは、自国の不景気を解消するために1840年に清帝国に「アヘン戦争」を仕掛け、清帝国から香港島を奪い、「南京条約」を結んで、上海などの5港を開港させ、清帝国に一律5%の関税(関税自由権の喪失)、領事裁判権などを認めさせ、同時にインドへも進出していました。東インド会社がインドの主要な地域を次々と植民地としていったのです。つまり、アジアの大国は、ヨーロッパを中心とする自由貿易圏に組み入れられていったのです。
しかし「アヘン戦争」の勝利によって香港島を支配し、上海などの5港を開港させたものの、イギリスが期待したほどの商業利益は上がりませんでした。そこで再び戦争を起こしてでも「南京条約」を改定させるべきだという風潮が高まっていきます。この口実になったのが「アロー号事件」です。
1856年、広州でイギリス船籍の密輸船アロー号が清の役人に拿捕され、清人船員が海賊の容疑で逮捕されます。その際に清の役人がイギリスの国旗を引き摺り下ろしたことに対して、当時の広東領事ハリー・パークスは「イギリスに対する侮辱だ」と抗議します。これに対して清国の大臣は、国旗が掲げられていなかったことや船籍登録の期限が過ぎていたことを主張し、アロー号船員の逮捕は合法であったと主張。広州に反英運動が高まりました。
一方のイギリスはフランスのナポレオン3世に共同出兵を求め、フランスは広西省でフランス人宣教師が殺害されたことを口実に出兵したのです。
1857年、イギリス・フランス連合は広州を占領。その後、清国内で局地戦を戦い、やがて北京を占領。1860年、北京条約が締結されます。これによって清は、天津の開港、九竜半島の割譲を飲まざるを得なくなり、ロシアは和約に仲介したとして沿海州を譲り受けたのです。
そのロシアは当時、国内政治の不満を解消すべく南下政策を推進していました。つまり、清帝国さらには日本を植民地にしようと目論んでいたのです。こうして見てみると、当時の幕府にとってイギリスが最大の脅威で、次いでロシアということになりそうです。
では、ヨーロッパの大国イタリアとドイツはどういう状況であったのかといえば、イタリアはオーストリアから領土を奪回し、1860年にイタリア王国を成立。現在のドイツは、プロイセン王国時代。軍事力を蓄えつつ、オーストリアとつばぜりあいを繰り返していました。
こういった状況の中で、小栗上野介は日米修好通商条約の締結に関する国書を携えてはるか太平洋を越えてアメリカへ渡ったのです。
By Master K/益田 慶