小栗上野介が駆け抜けた時代 44 激変した世界地図の中の江戸時代 シュリーマン
トロイア遺跡の発掘で知られるハインリッヒ・シュリーマンは、その発掘に先立つ6年前、世界旅行の途中、中国に立ち寄り、つづいて幕末の日本を訪れました。その見聞録が『シュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫)です。
シュリーマンが清国と日本を訪れたのは1965年。小栗上野介が勘定奉行勝手方になり、横須賀製鉄所の竣工式で鍬入れを行った年です。幕末の大きな事件を挙げれば、長州再征の勅許が下された年です。
シュリーマンは清国政府が税務業務に外国人を登用している様子を見て、次のように記しています。
「清国と英仏間に締結された条約の結果、賠償金を支払い終えるまで、外国人官吏を登用せざるを得なかったが、そうするとほどなく税収が大幅に増え、それまでの自国役人の腐敗堕落が明らかになった。それで清国政府は彼らを罷免し、代わりにシナ語を話せる外国人を雇うようになったのである」
清国と英仏間に締結された条約とは、1860年に結ばれた「北京条約」のことです。天津など11港が開港し、外国公使の北京在住などが認められました。そしてイギリスは香港島の対岸の九龍(クーロン)半島南部を植民地として手に入れたのです。
シュリーマンの旅行記で興味深いのは、北京で流通している貨幣を彼がこのように表現していることです。
「清国の唯一の貨幣は、三分の一が亜鉛で三分の二が鉛でできているのだが、この硬貨は大きいうえに重くて、ひどく汚れている。多額の取引の支払いは、すべて港で、メキシコ・ピアストルを使ってなされる。ただし国内ではメキシコ・ピアストルは通用しないから、銭を使う場合、高額すぎる支払いは延棒やさまざまな大きさの銀で行われる」
メキシコ・ピアストルとは、メキシコ・ドルのことです。このメキシコ・ドル1枚は日本での交換を2回行い、再び欧米に持っていくと3倍の価値になったのです。
●1メキシコ・ドル→(港の運上所にて交換)→ 一分銀三枚→(市中の両替店で両替)→金貨3/4両→(海外で金と銀にして交換)→3メキシコ・ドル
そしてシュリーマンは幕末の江戸を訪れ、「幕府はメキシコ・ピアストル以外の外国貨幣を認めない。しかもこの貨幣すら1ピアストルが天保一分銀2.2個から2.5個という法外な兌換率で、しかも横浜、長崎、函館でしか兌換できない」とぼやいています。さらに続けて意味深いことを語っています。
「(幕府は)外国との交易がいっそうやりにくくなるように、そしておそらくはそれ以上の悪い意図もあって、幕府は日本にいる全外交官、公使館、領事館の館員すべてと湾内の軍艦の乗り組員全員に対して1ピアストルを一分銀三個で一定額、交換することを許可している。(中略)この差額は通商の不利益をも顧みず、莫大な利益を、これら高官に与えている」
シュリーマンは、この不思議な両替をいくぶんかの怒りを持って記しています。幕府はわざわざ不利益になることをどうして行っているのか、といった口調です。そして外交官や船員が莫大な利益を得ていることは、シュリーマンでなくても不思議に思えるでしょう。
幕府は金貨の流出を阻止するために改鋳を行ってきましたが、場当たり的な政策がインフレを進行させ、俸給生活者である武士階級が経済的に困窮し、結果として幕府崩壊の原因のひとつになったのです。
それでは領事として日本に住んでいた大使は、そうとう高額な利益を手にしていたことでしょう。では、アメリカ合衆国の初代駐日公使であるハリスの1年間の収支を見てみましょう。
●収入 年俸5000ドル、小判の利殖で2500ドル、外国為替相場の利殖で2500ドル
●支出 1500ドル
●収支 8500ドル
8500ドルは当時のアメリカ都市部在住サラリーマンの年収約700ドルと比べると、約12年分となります。つまり、ハリスは1年間で12年分の収入を得ていたということです。
By Master K/益田 慶