世界資源戦争 4 石油開発の歴史 OPEC誕生とアラブ産油国の反撃

第二次世界大戦後、石油の需要は急拡大した。さらに大規模な油田開発が相次ぎ、供給過剰に陥った。1952年、石油メジャーは産油国の了承なしに公示価格(2.08ドル/バレル)を段階的に1.80ドル/バレルまで引き下げる方針を発表した。産油国側は事前通告を石油メジャーに求めたが、メジャーはそれを無視しつづけた。


1960年、石油産出国の利益を守るために設立された組織がOPEC(石油輸出国機構)だ。石油生産を独占する石油メジャーへの対抗組織として誕生したのである。誕生当時の加盟国は、イラク、イラン、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5カ国だった。その後、61年にカタール、62年にインドネシア、63年にエクアドル(93年に脱退)、67年にアラブ首長国連邦が順次加盟した。


OPEC設立から10年間は、世界の石油需給が緩和していたこともあって原油価格の引き上げはなく、メジャーによる国際カルテルが功を奏し、原油価格は1バレル2ドル前後で安定して推移した。日本はこの期間に原油価格が安定していたから高度経済成長が実現できたという見方もできるし、当時の西ドイツ、日本といった第二次世界大戦の敗戦国の復興と成長の要因に、石油を大量に使う製造業の拡大があったとも言えよう。


1970年代に入ると、自国に存在する資源を自国で管理・開発しようとする「資源ナショナリズム」の機運が強まり、石油メジャーと産油国の力関係が変化を見せ始める。資源の所有権という概念とイスラエルを支持する先進諸国に対するアラブ諸国の政策がリンクしたのである。当時イスラエルはシリア、レバノンに対して頻繁な軍事行動をとっていた。そのイスラエルを欧米諸国が認めていることに対するアラブ諸国の反発とナショナリズムが絶妙にミックスされ、欧米の石油メジャーへの対応が大きく変わっていく。つまり、国の大切な資源である石油は先進国の要望に応じて販売するものではなく、先進国との外交交渉、政治の重要なカードになっていったのである。


1970年、まずリビアが原油公示価格と所得税率の引き上げに踏み切った。日本や旧西ドイツなどの重厚長大産業の飛躍的な成長によって石油の需給が増え続けていた矢先、シリアで石油パイプラインの一部が破壊され、一時的に原油の供給がストップした。このタイミングにリビアの革命政権は同国で操作中の米石油大手「オキシデンタル・ペトロリアム」に対して原油価格と所得税の引き上げを行ったのである。


リビアのこの対応を踏襲し、ペルシャ湾岸諸国が1バレルあたり9セントの引き上げを実行。そして翌1971年、「テヘラン協定」でペルシャ湾岸原油公示価格を一律1バレルあたり35セント引き上げ、以降毎年2.5%+5セント引き上げていくことが決定した。これに加え、石油メジャーが産油国に支払う所得税率が50%から55%に引き上げられた。


産油国の石油収入は、多くの場合、産油国と石油会社との問で締結される石油利権契約に基づき、当時も現在もドル建てで行われている。公示価格を算定基準として利権料(ロイヤリティ)及び所得税を計算し、石油収入とするシステムだ。そのためにドルの価値が下がると、産油国がせっかく原油価格を値上げしてもその効果は相殺されてしまう。そこでドル減価分に応じた値上げを取り決めたのが、72年の「ジュネーブ協定」である。この協定には伏線がある。71年8月の「ニクソンショック」以降、ドルの価値は下がり続けていたのである。


また、同年に締結された「リヤド協定」では、サウジアラビア、アブダビと両国に利権を持つ石油メジャーの間で産油国の参加を規定した協定が決まり、石油メジャーから産油国への段階的な石油採掘事業利権の譲渡が合意される。これは産油国側は当初25%の石油利権を強制的に石油会社から買い取り、78年から81年まではその利権の割合を1年に5%ずつ引き上げていき、最終的に5割のシェアを取ろうというものであった。一方、急進派産油国のイラクは石油の国有化をめざしていた。アラブの産油国はそれぞれ石油資源の主権の確立を進めていった。


By Master K/益田 慶