小栗上野介が駆け抜けた時代 56 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(5)

万延元年に入ると、貿易は本格化してきます。同年の輸出総額は471万1千ドル(前年は89万ドル)、輸入総額は165万9千ドル(前年は60万ドル)に達しました。これらの貿易により正確にいくらの関税収入があったのかはわかっていません。仮にすべての輸出入品が一律5パーセントの関税率とすれば、新通貨で120万両以上の関税収入があったはずです。


安藤信正が「五品江戸回送令」を利用して輸出量の削減を計った翌文久元(1861)に若干輸出量が減少したことを除いては、この後明治維新までの間、輸出は毎年著しい伸びを示し続けます。また、輸入は例外なく毎年伸びています。万延元年以降、幕府の崩壊までの間、改鋳差益と並んで、関税収入は幕府の重大な財政基盤となっていくことになります。


老中・安藤信正政権で行った万延改鋳は、当初水野忠徳が建議した抜本策ではなく、金貨の流出防止だけを念頭に置いた策でした。したがって、物価の暴騰や輸出過多など、貿易から生まれた問題に対しては、別途対策を立てる必要が生じました。生活必需品が海外に流出することによる品薄と改鋳がインフレの原因であるなら、輸出制限という政策(保護貿易)が必須ですが、貿易による関税収入はすでにこの時期の幕府財政において無視できないほどに巨大なものになっていました。そうすると取るべき経済政策は、貿易量を適当に維持しつつ、同時により一層の増収をもたらし、幕府の財政再建に結びつくものでなければいけません。


万延元(1860年)年4月、国民の困窮を救済し、国益を増す目的を掲げて設立されたのが、経済政策の中核機関である「国益主法掛(こくえきしゅほうがかり)」とよばれる組織です。これは、町奉行、勘定奉行という従来からの経済官僚に加えて、大目付及び目付を加えて設立された行政委員会で、政策立案ばかりでなく、その実施作業にも当たる強力な組織です。遣米使節団の一員として渡米した小栗上野介は帰国後、すぐに勘定奉行に就任していますから、上野介もこの組織に参加したのでしょう。


もともと幕府は、沿海の港に代官支配の通船改所や産物会所を置いて、全国の市場と対外貿易を支配統制しょうと計画していました。外国との貿易利益を幕府が一手に収めることにより、国内経済を統制すると共に、幕府財政を立て直そうという意図があったのです。


国益主法掛は、そのために物資の把握を試みました。国益主法掛の打ち出した様々な政策の中でも最も重要なものが「国益会所」の設立です。国益会所とは、国内の全市場を支配するための中心機関のことです。これを通じてすべての輸出入品を幕府の支配下におくことができれば、幕府は開国による利潤を独占することができるわけです。それは同時に国内の流通を統制することを意味しますから、狂乱物価を抑制するなど、経済混乱の防止にもつながります。


この国益会所への諸国の産物の買い集め方式をめぐって、国益主法掛の中心を構成する勘定方と目付たちとの間に、深刻な理論対立が生じたとされています。前者の代表は、小栗上野介です。目付たちが「すべての商人を管轄して、一挙に利権を官に帰せん」と主張したのに対して、経済通の勘定方は「最初から官吏がやろうとすると失敗するから、まず商人にやらせて路線を確立した上で、徐々に官に権限を移行しよう」と反対しました。


この対立は、現代にも通じるところがあります。法律をつくって国民を一律に管理するのか、あるいは最初に国が推進し、やがて民間に委ねていくのか。その反対に、民間に託して自由にやらせ、方向性が決まったら国営にして運営するというのもひとつの手です。


さて、目付方と勘定方の対立ですが、やがて勘定方が主導権を握ることになり、国益会所のプランは順調に発展しました。そのプランは最終的には全国の産物を江戸及び大阪に設ける「会所」によって総括しようという壮大なものでした。さしあたって江戸に会所を設立し、諸藩の物産と関八州、甲信及び伊豆の産物を、豪商を手先にして買い集めようとしたのです。

 
By Master K/益田 慶