小さな政府江戸幕府 10 江戸幕府の先鋭的な政策 糸割符制度と朱印船制度

家康が実施した外交・貿易政策のひとつに「糸割符 (いとわっぷ) 制度」と「朱印船制度」がある。家康が東南アジア諸国との親善外交を進めるに至るには、いくつかの布石があった。1600年、オランダ東インド会社のリーフデ号が現在の大分県に漂着した。船長はイギリス人ウィリアム・アダムス。当時五大老の首座だった家康が大阪城で接見したものの、アダムスの帰国願いを聞き入れず、彼を家来にするために江戸へ連れて行った。


アダムスは家康に外国の貿易のしくみや列強の状況を教えたことから外国使節の面談や通訳として重宝され、西洋式の帆船の建造も担うようになる。家康はアダムスに出会い、貿易に強い関心を抱いたのだろう。のちにアダムスは相模三浦郡の知行地を与えられ、旗本・三浦按針(あんじん)として数奇な人生を歩んだ。このリーフデ号の漂着をきっかけに、オランダ、イギリスが日本貿易に加わることになる。


家康は1601年以降、安南(現在のベトナム)、スペイン領マニラ、カンボジア、シャム(現在のタイ)、パタニ(マレー半島に存在したマレー人王朝)などの東南アジア諸国に使者を派遣し、外交を始めた。そして1604年にスタートしたのが朱印船制度である。これは日本を出港する商人の船に海外渡航を許可する朱印状を与え、貿易を促すものだ。朱印状は、たとえるなら「貿易ビジネスマンに与えるパスポート」である。現在なら外務省の業務といえよう。


当時、日本の貿易相手国といえば主にポルトガルとスペイン。特にポルトガルはマカオに拠点を築いて以降、中国産生糸を一括購入して日本に輸出し、利益を独占していた。生糸は当時の日本において最も重要な輸入品であったが、ポルドガル人が価格決定権を持っていたのだ。そこで家康が考案したのが、京都の豪商・茶屋四郎次郎をリーダーに任命し、京都、堺、長崎の裕福な商人に「糸割符仲間」を組織させ、値段交渉と生糸の一括購入を許する「糸割符制度」である。仲間で一括購入した生糸は商人に分配させ、それが京都・大坂・江戸に渡った。民間に価格交渉をさせ、その恩恵として商人に利益を与えるという特待制度だ。「関ヶ原の合戦」によって国内の経済が混乱し、販売不振に陥っていた力のある商人に向けて、家康は強力なビジネスのネタを提供したのである。これは経済活性化政策ともいえる。


家康が特定の商人に独占的輸入権と独占的卸売権を与えた理由はそれだけではない。財力のある豪商が豊臣派の残党に軍資金を提供すれば謀反が起こる。豪商を支配下に置くにはまず彼らに利益を与えなければならない。こういう意図もあったのだろう。

そして同年、朱印船制度をスタートさせる。朱印船は長崎から出航し、長崎に帰港した。朱印船貿易は幕府と深いつながりのある商人に限られていたが、大名や武士にも朱印状は与えられていたようだ。輸入品は、生糸、絹織物、砂糖、武具に使われる鮫皮や鹿皮など。日本からの輸出品は、銀、銅、鉄、硫黄、刀などであった。特に石見銀山で採掘された銀は、当時銀が不足していた中国マーケットに歓迎された。東南アジアでは決済手段として銀が使われたからである。


朱印船貿易家として名高いのが、前出した「糸割符仲間」を集めたリーダーの茶屋四郎次郎である。当主は代々この名を名乗り、初代が徳川家の御用商人の一人となり、二代目が幕府御用達商人に出世し、三代目が朱印船貿易での特権を活かして莫大な資産を得た。三代目は長崎代官補佐役も務めた、いわば家康の貿易エージェントである。


そして商人と幕府の間に立って朱印状の発行を取り次いだのが、金貨・銀貨発行の総責任者の後藤庄三郎である。伏見に設立された「銀座」の運営管理を任されていた後藤は、貿易面でも重要な地位にいた。朱印船貿易で銀の輸出を家康に進言したのはおそらく後藤であろう。彼はさしずめ幕府の財務長官といったところか。

By Master K/益田 慶