小栗上野介が駆け抜けた時代 69 近代資本主義の萌芽 三井・三菱・大倉・藤田・安田

幕末に頭角をあらわした経済人は三井組の経営陣(三野村利衛門、益田孝)や三菱財閥の祖・岩崎弥太郎、古河財閥の創業者・古河市兵衛、無数の起業に関わった渋沢栄一、明治に入って大阪株式取引所、大阪商法会議所、大阪商業講習所(大阪商科大学の前身)などを設立する五代友厚だけではありません。


この時代には、後に大倉財閥を築く大倉喜八郎、阪神財閥のひとつとなる藤田財閥を創設した藤田伝三郎、安田財閥の祖・安田善次郎など、日本経済の種を蒔いた人物が豊富にいます。彼らの特長は組織力、資金力をどの分野、業種業態に注げば利益が生まれるのかをきっちり分析していたことにあります。あるいは本能的に察知していたのかもしれません。


新潟生まれの大倉喜八郎は18歳で上京、1857年に独立して乾物屋を経営。これは日米修好通商条約締結の前年です。1865年に「大倉屋銃砲店」を開業し、後に戊辰戦争(1868~69年)の際に官軍御用を務め、軍需品の供給で巨利を得ます。幕府でなく、官軍に軍需品を売ったことが喜八郎の先見性でしょう。明治6年、貿易商社「大倉組商会」を設立し、貿易業に着手します。やがて台湾出兵や日清・日露戦争で軍の用達商として活躍。朝鮮・中国における投資にも積極的で、帝国ホテルや大倉土木組(現・大成建設)を含め内外で多くの事業を展開し、大倉財閥を築きます。現あいおい損保、日清オイリオグループ、ホテルオークラなど大倉財閥が関与した企業は20社以上。しかし中核企業であった大倉組は大倉商事となり、中堅商社として存続しましたが、1998年に倒産し、解散しています。


藤田財閥を創設した藤田伝三郎もまた激動の時代を生きた実業家です。長州生まれの伝三郎は、維新の動乱期に高杉晋作に師事して奇兵隊に投じ、木戸孝允、井上馨、山県有朋らと交遊関係を結んでいます。明治2年、長州藩が陸運局を廃止して大砲・小銃・砲弾・銃丸などを払い下げたとき、これらを一手に引き受け、大阪に搬送して巨利を得ます。大倉喜八郎同様、「政商」といったところでしょう。やがて大阪に出て、軍靴の製造を皮切りに建設業に手を広げ、二人の兄が事業に参加し、「藤田組」の基盤がつくられます。兄弟経営を起点としているところが藤田組の特徴です。


1877年の西南戦争では、陸軍に被服、食糧、機械、軍靴を納入、人夫の斡旋までして、三井・三菱と並ぶ利益をあげたとされています。藤田はその後、大阪商法会議所創設の発起人となり、大阪硫酸製造会社や関西貿易社の設立に参加、琵琶湖の太湖汽船会社や大阪紡績初代取締役頭取に就任し、阪神に藤田財閥を築いていきます。「ワシントンホテル」「フォーシーズンズ椿山荘」などのホテルやレジャー施設を経営する藤田観光が現在グループの中核となっています。


安田財閥の創設者の安田善次郎は、富山藩出身。17歳で江戸に出、丁稚奉公の後、1864年に両替店安田屋を開業。これは下関発砲事件や池田屋事件が起こった年です。太政官札・公債などの取引、官公預金などで蓄財し、三井と並んで江戸屈指の金融業者となります。明治9年には、第三国立銀行の創立に参加、明治13年に安田銀行(後の富士銀行。現・みずほコーポレート銀行)を開業します。15年には、創立されたばかりの日本銀行の理事に就任しています。後に損保会社(現損害保険ジャパン)、生保会社(現・明治安田生命保険)を次々と設立し、金融財閥を築きました。三井や三菱、住友と異なり、重工業に進出せず、金融グループを目指したのが安田善次郎の着眼点でしょう。安田財閥は財閥解体後、芙蓉グループとして君臨しています。


幕末に起業した彼らに共通するのは、価値観が一変する不安定な社会に生きていたからこそ、大きなリスクを承知で新たな事業に挑んだことでしょう。

By Master K/益田 慶