小さな政府江戸幕府 18 江戸の行政 都市政策(「時の鐘」の運営)

落語や怪談噺に出てくる「草木も眠る丑三つ時」。丑三つ時は、江戸時代の時間の表記だ。干支と干支の間の2時間をさらにさらに細かく4つに分け、丑一つ(2:00~2:30)、丑二つ(2:30~3:00)、丑三つ(3:00~3:30)、丑四つ(3:30~4:00)と数えた。丑三つ時は午前3時から3時半ということになる。


時刻を報じる鐘「時の鐘」が都市政策の一環として設置されたのが江戸時代である。当然のことながら暦は時計という概念が浸透する前から存在した。日本では中国から伝わった暦法を長い間用いてきたが、江戸時代に日本独自のものになった。当時の時刻の取り方は「不定時法」と呼び、日の出と日の入りを基準に昼と夜のそれぞれを六つに割って一刻(いっとき)と定めた。


したがって一刻は季節によって長短が生まれた。
1626年、江戸城から近い本石町(現在の日本橋)に鐘楼が建てられ、鐘役が鐘を鳴らして時刻を知らせたのが「時の鐘」の起源である。石垣の上に四本足の楼が建てられ、大型の梵鐘を吊るし、一定の時刻になるとその時刻の数の鐘(たとえば現在の午後6時に該当する暮れ六つなら6回)を叩いたのだ。


よく混同しがちなのが火の見やぐら。こちらは消防や自衛のために町ごとに置かれた詰所(番屋)に常駐する番人が町全体を見渡せるよう、番屋に櫓を組んで一段高い場所に置いた見張台で、火事や洪水が発生したときに半鐘を鳴らす場所でもある。鐘楼は消防には使われず、あくまでも「時の鐘」を叩く目的のためだけに設置された建造物だ。浅草寺や目白不動にも設置されたので、お寺の梵鐘にも見えるが、寺院が管理したわけでも町人の自主管理でもなかった。これは後述する。


本石町に鐘楼が建てられる以前は江戸城で太鼓を鳴らして時刻を知らせたが、さすがに江戸市中には届かなかったようだ。その後、浅草、上野、芝など9ヵ所に鐘楼が建てられ、順次鐘の音をリレーして時を知らせたという。江戸の街区拡大とともに、「時の鐘」の数も増え、最終的に15ヵ所となった。音で時刻を知らせる時計が大江戸に15個設置されたというわけだ。


「時の鐘」は江戸以外の城下町や京都、長崎などの都市にも設置された。
鐘楼の運営は意外なことに町人ではなく、幕府の管理下に置かれていた。鐘楼の設置場所、「鐘役銭」の徴収額、徴収範囲、鐘楼の建設・修理、鐘を鳴らす鐘役の交代など、すべて管轄の奉行所の許可が必要であった。鐘役銭とは「時の鐘」の運営費のことで、時の鐘が聞こえる範囲にある町の住民から1所帯月額銭4文を徴収した。言うなれば「時報税」といったところか。鐘役は名跡相続による世襲制で、幕府が命じた者がその仕事に就いたという。世襲制の公務員のような職種である。


こうして幕府は「時の鐘」という都市生活に欠かせないシステムをつくり、管理したという。江戸の人々はその政策のもと、統一した時刻報知によって生活を営んでいたのである。これは武家や町人に統一された時間の認識が必要になったことを物語っている。これを専門に書いた書物はないが、国の近代化に必要なOSのようなものである。徳川コンツェルンやその支社長のもとで働くサラリーマンである武家は、江戸城へ登城する時間が決められていただけに正確な時間を知ることは不可欠であった。また町人にとっても納品の時間や仕事の終わりの時間を知らせてくれる「時の鐘」は重要であったと想像できる。


江戸では木戸を閉める時間も幕府によって決められていた。これは強盗や火つけに対する防犯上の政策だ。町境に木戸番と呼ばれる施設が設けられ、木戸の見張りをした。不審者を町に入れないための工夫である。木戸は夜の四つ時(午後10時)を知らせる「時の鐘」を聞いて閉鎖され、以降は左右の潜戸から通行させた。その際には必ず拍子木を打って、次の木戸に通行人が向かうことを知らせたという。これも「時の鐘」システムが機能していなければできない仕事である。


By Master K/益田 慶