小さな政府江戸幕府 20 江戸幕府の経済政策 江戸中期の課税制度と物価上昇

五代将軍綱吉の時代に米価が低落しはじめた要因は米の生産量にあった。幕府や諸藩は、米=「石高」を維持、あるいはアップすべく新田開発に励み、また農業技術が向上したことで米の生産量が増えていった。江戸時代初期に人口が増加したとはいえ、総需要を供給が上回れば米は余る。


米が余れば米価は下がる。幕府の財政のうち主だった収入は、米を売って金に換えることだったので、米価が下がれば当然財政は苦しくなる。さらに米以外の商品が値上がりすれば、インフレによる収入増加は見込めない。


これに追い打ちをかけるように、江戸で大火、関東で元禄地震、東南海で宝永地震、利根川の洪水など大災害が続き、幕府の赤字財政は減らなかった。綱吉時代の勘定奉行・荻原重秀は、幕府天領の佐渡金山のテコ入れ策や全国の酒蔵に50%の運上銀をかけるなどして収入の増加に努めたという。


運上銀とは農業以外の商売にかかる税金、営業税のことだ。職種によって額は決められていた。たとえば生産物の運送を担う船を買って運送業を始める場合、その船賃でなく、運送業という職種自体に決められた営業税が必要だったということである。これは商売を営むための鑑札料と考えるとわかりやすい。もともと商店は店の間口に応じた棟別銭を徴収されていたが、商人や製造業者はこれに加え、商札(商業鑑札)を買い取るというスタイルで運上銀を納めた。


記録として残っているものだけで、大店商札、中店商札、小店商札、魚問屋札、魚商札、醤油手造商札、醤油荷売札、紺屋札、塩売札、薬商札、鍛冶札、油店札、傘札、水車屋札、竹木商札、竹細工商札、桶屋札、瓦焼札、産物仲買札、材木問屋札、酢手造札、茶手商札、諸商人宿札などがある。塩や竹、油など漢字から業種・業態を察することができるだろう。


運用銀は諸藩でも採用され、特産物の生産にかかわる者も課税されたという記録が残っている。たとえば江戸時代に肥料として重用された干鰯(ほしか)だ。鰯から油をぬいたカスで、佐伯藩(現在の大分県)の浜で生産された干鰯は特産品だった。綿の栽培に効果があると評判を呼び、干鰯が全国市場で販売されるようになると、佐伯藩はそこに目をつけ、生産と流通の両面から利益を得ようとした。干鰯を生産する干浜に運上銀をかけ、原料の鰯を獲る網、漁船にも税金を課せ、さらに漁獲量に応じて課税したという。佐伯藩では船に対しても「船役」という税を課している。


各藩の運上銀の徴収の仕方はこうだ。藩の指定する判屋に税金を納め、そこで支払い済みであることを記した紙片をもらう。納税したことを証明するために「判」を押したことから判屋と呼ばれたようだが、その判は収入印紙のような存在であったと想像できる。判屋は現在なら税務署派出所といった位置づけだろう。


さて、江戸中期の物価だが、元禄時代から物価は上昇を続けている。元禄文化が花開き、芝居や浮世絵、行楽や花火などのエンタテイメントが盛んになったことを考えると、庶民の生活水準が向上したことがわかる。商業が活性化し、多くの庶民が経済活動に関与するようになると、貨幣は活発に流通する。そこで生活関連商品の需要が供給を上回るようになる。

しかし当時はまだ機械や技術は導入されていないので、生産量は急には増えない。品不足が生じる。それに乗じて不正な利益を得ようとして価格の値上げを図る動きが始まったことは容易に想像できる。これは商人がモラルをなくしたとも解釈できるが、商人が頭を使って営業活動を開始したとも分析できる。そもそも商売とは利潤をあげることを目的にしているので、生活必需品が不足すればそれらの商品を高く販売しようと考えるのは当然の流れ。だから物価は上がる。


物価上昇を抑えるための新たな政策が登場したのは綱吉の死後、約10年後のことだ。「元禄バブル」が弾け、幕府はもはや丼勘定で財政を運営できない危機に面していた。ここに登場したのが紀伊藩主から将軍となった吉宗である。吉宗が実行した「享保の改革」は幕政改革であると同時に重要な経済政策が含まれていた。

By Master K/益田 慶