小さな政府江戸幕府 32 田沼意次の重商業主義経済政策 蝦夷地の開拓

田沼意次は蝦夷地の開発に着手しようとし、幕府の資金で調査隊を送り込むなど莫大な投資をしている。蝦夷地と本州はそれまでまったく交流がなかったわけではない。寒冷地であることから米の収穫ができなかった松前藩が藩財政を維持するため、蝦夷地をいくつかに分割し、「場所」と名づけ、主だった家臣を知行(管理者)に任命し、アイヌとの交易を認めていた。「場所」の線引きは松前藩が行ない、実際のビジネスは商人の手に委ねられた。松前藩は商人から税金を徴収するというしくみだ。これを「場所請負制」という。もともとは家康が松前藩に交易の独占権を与えたことにある。こうしてみると、場所請負制は松前藩による"植民地制度"ともいえる。


当時の幕府はアイヌの人々が直接ロシア人と貿易を開始するのではないかと懸念し、蝦夷地をこのまま松前藩に任せておくことはできないと考えていたようだが、田沼が蝦夷地に着目した理由はそれとは異なる。大きく分けると、ロシアの南下政策への対応と土地の有効活用だ。当時の日本は鎖国中であったが、ポルトガルと中国船だけは長崎に出入りできた。ロシアが植民地を求めて南下政策を取ろうとしていることは、長崎にやってくる欧州商人を通じて幕臣の耳に入っていた。


事実、当時ロシア船は頻繁に日本海までやってきていた。だから真っ先にロシアが制圧してくるはずの蝦夷地を国防のために開拓しておこうという意図があったのだろう。1771年にアイヌがウルップ島のロシア人を攻撃して追い払ったという記録が残っていることから、ロシア人は現在の北方領土に上陸していたことがわかる。彼らはロシア政府の人間ではなく、動物を捕獲して毛皮を得ようとするハンターだったが、寒冷地で農作物が育たないロシアが国策として資源のある土地を求めて南下してくるのは時間の問題であった。


田沼は蝦夷地を調べるために10名から成る探検チームを結成し、送り込んだ。この調査隊に参加したのが探検家の最上徳内である。彼は地理やアイヌの風俗を調査し、千島や樺太まで探検している。択捉やウルップ島へも渡り、ロシア人とも接触し、交友を築いている。間宮林蔵が蝦夷地の測量に挑んだのは、この20年後である。


さて、田沼の蝦夷地開拓だが、重商主義政策はここにも色濃く反映しており、彼は防衛だけでなく、輸出向けの海産物を蝦夷地で量産させようと考えていたといわれている。ロシアと国交を結び、貿易で利益をあげ、結果としてロシアの脅威から日本を守ろうと考えていたようだ。しかしもうひとつ、田沼は松前藩と手を組んで蝦夷地を開拓し、北方貿易の利権を確保し、私腹を肥やそうとしたに過ぎないという見方もある。知恵の働く田沼のことだから、それくらいは考えていただろう。


どちらにしても海外との貿易を縮小していた時代に、反対にロシアと貿易をしようと考えた田沼の「逆転の発想」は、保守派からはまったく理解できなかったはず。仮に日米修好通商条約前に日露修好通商条約が田沼のもとで結ばれていたとしたら、その後の日本史は大きく変わっていただろう。


田沼失脚後、松平定信は蝦夷地開発を中止したが、蝦夷地近海に頻繁にロシア艦船が現われたことから、蝦夷地の警備に本腰を入れざるを得なくなる。1799年、幕府は東蝦夷地を松前藩から召し上げ、幕府の直轄地とし、ついで1807年には西蝦夷地(北海道の日本海・オホーツク海側)も直轄地として、松前奉行を置き、蝦夷地の管理を始める。結果論だが、田沼が着目したことをあとからなぞったような展開であった。


By Master K/益田 慶