小さな政府江戸幕府 42 風俗と統制 富興行
江戸時代にブームを迎えたものに富興行がある。富くじ、富札、富突など呼称は異なるが、同じ内容だ。寺を普請するための資金集めの方法として行われた宝くじのことである。寺社が寺社奉行に出願し、許可を受けて開いた。
当初は、江戸、京都、大坂の3カ所に限られ、回数も規制されたが、1820年から1830年頃の最盛期には、江戸市中での興行は15ヶ所20の寺社にまで広がり、興行回数は年間120回も開催されていたという。
富興行のシステムはこうだ。興行主(寺社)が数千枚から数万枚の木製の富札をつくり、それに番号をつける。富札店(札屋)が興行主(寺社)から、番号が記された富札を買い取る。富札店はその仕入れ値に数割の利益を乗せて市中で販売する。寺社奉行に申請する必要があったため、定価はつけられたが、賞金額と需要によって富札は上下した。
一等賞金は、1000両(千両富)、500両(五百両富)、300両(三百両富)、100両(百両富)などさまざまなタイプがあり、札数が膨大な数にのぼるときは、番号に、鶴亀、松竹梅、雪月花、七福神といった組をつけ、それぞれに番号をつけた。たとえば「梅の267番」が当たったときは、松と竹の同番号の札にもいくらかの褒美金がつけられることがあった。
購入者は、市中で購入した富札(木札)を木箱に納め、同じ番号を記した紙札をもらう。当選番号を決める「富突」の日に、僧侶が箱の札をかきまぜ、側面の穴からキリで木札を突き、刺さった木札の番号を読み上げる。当選した紙札を差し出せば、その人が当選者というしくみである。
富札は高額で庶民が気軽に買えるものではなかった。たとえば、千両富(一等賞金が1000両=約1億2000万円のくじ)では、富札の料金が1枚1分(約3万円)だった。このため1枚の札を数人が共同して購入した。これは「割札」と呼ばれるもので、購入者は仮札をもらう。2人で購入した仮札は「半割札」、4人で購入した仮札は「四人割」と呼ばれた。
実際には、寺社奉行が公認した千両富は少なく、百両富が主流だったようだ。しかし、公認の富札以外に非合法の富興行が盛んに行われ、そこでは千両富が発売されたという。幕府が取締を強化したのは言うまでもない。
当選者が手にする金は、たとえば千両富が当たったとすれば、100両を普請代として興行主(寺社)に進呈し、100両を富札店にお礼として差し出した。そのほか諸経費と称して、40~50両を興行主(寺社)や富札店に渡した。だから実際に当選者のもとに入るのは700両ほどだ。おそらく最ももうかったのは興行主だろう。
当時は火災が多かったので、焼失した寺社が再建の費用を捻出するため、富興行を開くケースが多かったという。東京の目黒不動や湯島天神は、特に有名であった。その一方で、富札を購入するために借金を重ねる庶民が増え、それを防止するため、最初に千両富のみ禁止された。そして「天保の改革」期の1842年、水野忠邦によって全面禁止令が出された。
富札の禁止は「博打の禁止」と紙一重だが、水野はほかにも芝居小屋(中村座、市村座、守田座)を江戸郊外(浅草)へ移転したり、寄席を閉鎖したりするなど、庶民の娯楽にも制限を加えた。特に歌舞伎への弾圧は厳しかった。
幕府は、問題がなければ庶民の好きなようにさせたが、こと風紀が乱れるような傾向が見えると、直接介入し、規制したようだ。
By Master K/益田 慶