小さな政府江戸幕府 48 大坂の商業 整備された先物取引所「堂島米会所」
1697年、対岸の中之島から堂島に米市場が移転し、それ以降、幕末まで堂島といえば米市場を意味するようになった。堂島は、天満の青物市場、雑喉場(ざこば)の魚市場と並び大坂三大市場の一つとして、大坂人の台所をまかなっていた。そして1730年には、それまで禁止されていた米会所が堂島に開設された。
米会所とは、米の取引所のことだ。幕府は、それまで「米切手」の売買や「延払い」による取引が米価の高騰につながるとして、米会所の開設を承認していなかった。米切手とは、諸藩の蔵屋敷が蔵米の所有者に発券した米の保管証明書で、米の所有権を示す証書である。保管している蔵や扱う商人の名前、米の量などが、偽造を防ぐために特殊な字体で書かれていた。
その用途はこうだ。米仲買人は落札した蔵米を蔵屋敷に保管させ、米切手を受け取る。ここで蔵米の所有権が移転する。当初は発行後30日以内に米の蔵出しを行なうことが義務づけられていた。しかし、次第に流通証券としての性格を持つようになり、為替の代用品として決済に使われるようになり、転売されるようになっていった。一方の延払いとは、売買契約の際、代金をすぐに払わずに、ある期間後に払うことだ。幕府は、この米切手と延払いによる取引を禁止していたのである。しかし、享保の改革が成功し、米価が下落したのを見て、幕府は開設を認めた。要するに規制緩和だ。
米会所の売りや買いの注文は、手指による符丁で行なわれた。この伝統は近年まで証券取引所にも引き継がれていた。米会所で行なわれた取引は、正米(しょうまい)取引、帳合米(ちょうあいまい)取引、石建米(こくたてまい)取引の3種類。正米取引が、米切手を売買する現物取引である。公認の米仲買株を有する者(現在でいう会員)のみ参加が許された。米仲買人は、米問屋の注文や投機目的で米切手を売買した。
1年を春・夏・冬の3期に分け、藩の蔵屋敷が発行する米切手を米仲買の間で取引する。決済は銀による即日(のちに4後)支払いであったため、その資金を融通する入替(いれかえ)両替と呼ばれる金融業者が出入りした。入替両替は、米切手を担保に高金利で米仲買に資金を貸し付けた。借り手は、米価が上がると担保に入れてある米切手を売却し、借財を返却した。また、米価が下落し、米切手を流してしまう借り手に対して、入替両替は質に取った米切手を市場で売却し、それで元利決済した。
帳合米取引は、筑前、広島、中国、加賀米のうち、ひとつを対象にした先物取引である。敷銀という証拠金を積むだけで、期限までに売り方と買い方が最初の売買と反対の売買を行ない、差金決済による取引が帳簿上だけで行なわれた。これが現在の基本的な先物市場のしくみを備えた「世界初の先物取引市場」だといわれている。
たとえば、ある問屋が正米取引で米切手を手にした場合、現米を手にするまでに米価が下落すると損をしてしまう。そこで、米切手を買うと同時に、同量の帳合米を売っておく。万一、米価が下落しても、帳合米を買い戻せば損失が出ないことになる。こうした先物取引のしくみを生み出した堂島米会所は、当時世界最先端の市場メカニズムであったと想像できる。
帳合米取引が大きな単位で取引されたのに対し、石建米取引は小規模な帳合米取引といえる。米会所では、石建米取引はさほど重要な取引ではなく、帳合米が中心となって取引されていたが、幕末に近づくにつれて米の先物取引の中心は帳合米から石建米へと移っていった。
堂島米会所は、幕府の経済政策と同じくらい、いや、ある面ではそれ以上に江戸時代の経済をリードする重要な存在であった。米会所に集まる商人たち、すなわち蔵元、米問屋、米仲買人、入替両替などによって独自の市場メカニズムができあがり、商業のしくみをつくりあげていったのである。
By Master K/益田 慶