小さな政府江戸幕府 50 大坂の商業 サブプライム大名を支配した大坂商人
大名の財政は、年貢米を換金してくれる大坂商人に支配されていたといっても過言ではない。歴史の教科書には「鎌倉幕府の成立以降、明治維新まで武士が政治を司る時代が続いた」と記されているが、江戸時代の大名の財政を左右したのは、まぎれもなく大坂商人であった。その大坂の商業資本は、無担保の「大名貸し」で多額の利益を得ていた。
このことは、江戸時代の構造的な特徴を顕著に表わしている。戦国時代の大名は、収入(年貢米や金・銀、特産物など)を拡大させるために、隣国に攻め入り、領土を拡大し、その財産を奪った。もちろん、今日に至るまで「土地=財産」であるから、土地を略奪することが財産を増やすことであり、また収入を増やすための大名の基本的な仕事であった。これは戦国大名のシンプルな成長政策といえよう。
武田信玄も織田信長も豊臣秀吉もすべてこの政策を貫いた。しかし、家康が江戸に幕府を開き、幕藩体制が固まるにつれ、大名は略奪という本来の生産手段と仕事を失い、領土の政治を行なうしか仕事はなかった。大名や幕僚には政治家や役人としての役割があったが、大多数の武士は単なる「消費生活者」に過ぎなかった。
元禄期に入ると経済システムが整い、また人口も爆発的に増え、支出が増加していく一方で、年貢増収は頭打ちとなっていった。正確にいえば、年貢収入は一定だが、支出が増えていったのである。プライマリーバランスを均衡させるには、歳出を税金でまかなうしか方法はない。そこで、幕府や藩は、商人から税金を取ることを考えた。つまり、増税である。
しかし、大名はローカル資本だけでは財政を運営できなくなっていた。当時は予期せぬ飢饉が年々も続き、米が不作になり、年貢米収入が激減したほか、幕府からの天下普請と呼ばれる公共事業への参加、冠婚葬祭や新たな将軍が誕生するたびに支出が生じていた。そこで、大名は主に大坂の商人から借金をして財政を運営することが日常的になっていた。すなわち、諸藩は「財政赤字」だったのである。しかも収入が伸びないまま借金を繰り返せば、それは永遠に完済できない。利息分だけでも支払えばマシな方で、元金の返済には手がまわらない大名も多くいたようだ。
借金踏み倒しで名高いのが、肥後熊本の細川家だ。アメリカ発の金融危機を例に挙げるなら、細川家は確実に「サブプライム」(信用度の低い層)である。信用度ゼロの大名の噂は、大坂商人の間で広まり、誰も貸し付けをしなくなった。ザプライム大名への貸し渋りが始まったのである。なかには大名の債権者である商人がその領土に出向き、農民から年貢を直接取り立てたり、代官に年貢徴収を厳命したりすることもあったという。ザプライム大名は完全に大坂商人に支配されていたといえよう。
大名の信用が下落し、大名貸しのリスクが増えるにつれて、商人は米などの現物がない限り、大名に金を貸さなくなった。武士はさらにひもじくなり、商人の資金は大坂や江戸など大都市の金融市場に集まるようになる。
たとえば三井財閥の始祖・三井高利は松坂で金融業を営み、大名貸しで財産を築き、その資本をもとに江戸に進出した。「現金安売り掛値なし」の呉服屋「三井呉服店」は、町人をターゲットにした小売業として大きな成功を収めた。大名への販売は売掛けであったし、また焦げ付くことが予想された。だからその売掛けの焦げ付きは原価に加算されて販売され、高額になっていたが、町人相手の着物の販売を現金のみにしたことで、店頭価格を引き下げることが可能になった。
こういった論理的かつ戦力的なマーケティング思考は、当時の商人はすこぶる長けていたようだ。そして何も生産せず、ただ消費するだけとなった江戸時代の武士は、商人にとって大きな投資先ではなくなった。商人は自身の新たなビジネスに投資するようになっていった。ご存知のように、幕末に残された最大の投資先は、江戸幕府と官軍のどちらかであった。武力でなく、経済が時代を牽引する時代が到来したのは、当然の成り行きであったといえよう。
By Master K/益田 慶