小さな政府 54 幕末の財政事情 徳川家と朝廷・公家のスポンサー
物価の高騰、金の海外流出などにより、幕末の日本は大不況に陥った。そして幕府の財政は危機に直面した。約15万人の兵士を送ったとされる長州征伐の資金は、農民や商人に課した「御用金」でまかなわれた。つまり幕府の資金調達は、民間頼りだったのである。
一方、政治の表舞台は京都の朝廷に移っていった。歴史学者は誰も指摘していないが、当時の徳川家と朝廷・公家の自己資本率を比較してみると興味深いことがわかってくる。おそらく経済的に安定していたのは、朝廷・公家のほうであろう。彼らは物価の高騰や金の流出とは無縁の世界で生活していたからだ。
薩長同盟による倒幕の実現性が高まったとき、彼らが政治的支柱として推したのが朝廷だった。朝廷の政務にあたっていたのは、天皇、摂家(せっけ)、清華家(せいがけ)など朝議出席メンバーである。摂家とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った五家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)のことだ。彼らは天皇家に奉仕することを職務とする貴族で、幕府の支援も受けていた。清華家とは、五家に次ぐ家格で、九家(久我、三条、西園、徳大寺、花山印、大炊御門、今出川、醍醐、広幡)が該当した。
彼らは幕府からそれぞれ300~1700石の家禄を与えられていた。鎌倉時代の公家は荘園管理権が経済的基盤であったが、江戸時代の公家は幕府から与えられた家禄が収入であった。また、代々伝わる家業、たとえば歌道・書道などがある公家は、家元として全国の弟子に免状を与える特権があり、そこから莫大な収入が見込めた。
たとえば幕末の朝廷権力の復活を背景に明治維新に功績を残した岩倉具視や三条実美は公家である。岩倉は下級公家であったが、朝廷に仕えていた。いわば宮内庁の職員である。急進派の公家である三条にしても幕府から与えられた土地があり、安定した収入があった。
一方の徳川家は直轄統治地域である江戸、京、大坂などから徴収する石高が主な収入であった。しかし、そこから禄高(給料)を支払わねばならなかったため、米価格の乱高下は財政に大きく影響した。また、各藩の財政も苦しかったため、幕府を支援するどころか、自身の借金返済で汲々としていた。
1867年に徳川慶喜が政権を朝廷へ返上する大政奉還を発表。これを受けて明治天皇が新政権の樹立を宣言。政権の形態は雄藩連合だ。この時点でも徳川家は日本一の大大名であったが、慶喜は新政府のメンバーから除外された。この時点で旧幕府は反対勢力となったわけだが、軍隊の数はまだ勝っていた。勝敗を分けたのは軍資金の多さである。資金調達能力と言い換えてもいいだろう。
明治維新の際に官軍は、商人から借金をして武器を調達したが、貸す側からすれば信頼できる朝廷や公家が背後にいるという安心感があったのだろう。また、幕府に対する不信感、失望感の大きさが官軍を支援する動機づけになったともいえる。1868年、官軍は東海道、東山道、北陸道と三方面に分かれて江戸を目指した。薩長を中心とする22藩の藩兵、およそ5万人が行軍したのだから、宿代、食費、武器代など相当な経費がかかったと想像できる。
資金を調達したのは、京、大坂の商人約130人であった。その合計はおよそ300万両だ。三井は単独で25000両も提供したとされている。明治政府の実質的なスポンサーは、三井をはじめとする商人であった。諸大名も官軍に寝返り、江戸攻撃に率先して赴く豹変ぶり。旧幕府の生き残りである徳川家は、こうして江戸城に孤立し、ついに無血開城へとつながっていくのである。